2011年8月18日木曜日

プール


昨日は、父が仕事を休んで、ニイニとたっくんと3人でプールに行きました。
目指すは、蒲郡市のラグーナ。
ここは、大きなプールが3つもあります。

お盆休みの影響で、駐車場は、いきなり臨時駐車場にとめさせられました。
人が多いのかなと思っていたら、案の定。ラグーナは、人だらけでした。

2人のお気に入りは、なんといっても、大きな波の出るプールです。
普段体験できない波のすごさ?に、2人とも感動していました。
そのほか、昼食は、ニイニが美味しいラーメンで、たっくんは、なんと「ニクッ」という名の鳥の足。
2人とも美味しそうに食べていました。

たっくんは、初めて、浮き輪なしで流水プールに挑戦しました。
足がなんとかつくため、楽しそうに、浮き輪なしで、何周もプールをまわっていました。

気がつくと、プールに8時間もいました(ラグーナは、時計があまりなく、時間を忘れて遊んでいました)。
曇天でしたが、3人とも、しっかり、日に焼けました。

2011年8月15日月曜日

奈良近江路3





最終日は、滋賀県立こどもの国へ行きました。
ここは、琵琶湖の北西に位置し、福井県に近いところです。

このこどもの国では、琵琶湖で泳ぐことができます。
さっそく、ニイニとたっクンと父は、琵琶湖で泳ぎました。
浮き輪を忘れたのですが、勝手に友達になった子からかりて遊びました。

そのほか、ここでは、面白自転車があったり、卓球があったり。
またまた、バルーンの中に子どもが入って、遊ぶこともできました。
そうそう、ヤジロべいみたいな遊具もおもしろかったです。

滋賀県の子どもたちは、いつもここで遊べていいなと私たち。
それだけ、一日ゆっくりすることができました。

大満足だった奈良近江路。
帰りの車では、たっくんやとうくんが夢の中でした。
お疲れさまでした。

奈良近江路2



奈良から、一行は、京都に向かいました。
まだ、ホテルのチェックイン時間に余裕があったので、清水寺へ行きました。
ここも世界遺産です。

駐車場から、長い上り坂を登ると、清水寺はあります。
ここで、お参りをして、ぐるーっと回りました。

夜は、ホテルの無料バスを利用して、京都駅で夕食。
美味しいパスタをいただきました。

京都の夜。いろいろな文化遺産に囲まれて、静かな夜となりました。


奈良・近江路1




7月24日・25日と奈良、京都、そして近江へと旅をしました。
奈良は、鹿さんがいるからという、単純な?理由で行くことにしました。
奈良公園は、父も母も小学校の修学旅行で訪れたことのあるところです。

ここには、言わずと知れた鹿さんがたくさんいます。
ニイニは、シカせんべいを買って、果敢に?鹿さんにシカせんべいをあげます。
しかし、鹿さんは少し狂暴?化しており、ニイニは、シカせんべいをあげながら、逃げ回っていました。
たっくんは、それどころではなく、シカせんべい自体を持とうとしませんでした。

そんな中、とうくんは、足で鹿さんをキック。
果敢に鹿さんとやりあっていました。

東大寺の大仏さんは、相変わらず大きく、子どもたちもびっくり。
また、君たちも小学生の修学旅行に来るからねと父と母。
そのころには、鹿さんに上手にシカせんべいをあげてくださいね。


2011年8月10日水曜日

仙台のラジオに出演

最近父は、仕事柄、地元のCATVやラジオにもちょくちょく出演(本当にちょくちょくですが)しています。
本日は、大学生がキャスターを務めるラジオに出演しました。
内容は、東日本大震災をうけてです。
このラジオ番組は、仙台周辺でOAされるそうです。

そのなかで、キャスターである大学生がつぎのように聞いてきました。
「若者に対して、なにかメッセージはありますか?」

父は、思わず、次のようにしゃべりました。

これからの日本を築き上げていくのは、若い人たちです。
つい先日、私も、原発避難してきた福島出身の小学生と話をしました。
今回、このように、たくさんの子どもたちが、東日本大震災を経験し、辛い目にあっています。

でも、震災を経験した子どもたちは、より強く生きることができるようになったと思います。
日本は、幾度となく、壊滅的な状況に陥り、復活してきました。
たとえば、戦争などは、その例です。
私は、今回の震災においても、日本は、必ず復興すると思っています。

ですから、若い人たちにお願いしたいことは、とにかく、今を全力で生きてほしいということです。
皆さんの活動一つひとつ。そして、若い皆さんが全力で生きてくれるそのことが、東日本の復興につながっているのだということを、忘れないでください。


なぜ、私も、突然、このようにしゃべったのか、わかりません。
キャスターの子は、私の言葉に感動して泣いていました。

このブログに記したのは、ただ、無駄に生きるな!
懸命に生きろ!そうすれば、人へ、地域へ、そして国への貢献につながるのだということだということ。
そのことを、自分自身に言い聞かせたかったのかもしれません。

この言葉をくれた全てに感謝します。
ありがとうございます。







2011年8月6日土曜日

被災地へ7



帰り道。我々は、富士川のSAに寄った。
ここから、日本のシンボル、富士山を望むことができる。
震災直後、雪冠をしていた富士は、今、とても青く高い。
震災があってからも、日本は、四季を忘れず、人々が活動的になる暑い夏を迎えた。


今回のブログは、次の言葉で締めたいと思う。

「大震災の後の1週間、富士は白く輝いていた」
富士の銀嶺のようにそびえ立ってほしいという日本再生への切なる願いを感じたが、同時に、震災直後、人々の間に沸々と沸き起こった一体感と連帯感、そこに脈打つ気高い純白の精神への愛惜の念のようなものを感じてしまった。
(船橋洋一 朝日新聞社 前主筆)

(引用)
日本の未来について話そう -日本再生への提言ー,マッキンゼー&カンパニー責任編集,小学館,2011年


日本は、過去にも戦争や天災により、幾度となく、壊滅的な状況に陥ってきた。
そのたびに、私たちは、立ちあがり、それ以上の村を、まちを、そして都市を築き上げてきた。
そこには、大和魂ともいうべき、日本人のDNAがある。
そして、その偉大なるDNAを私たち、一人ひとりが祖先から引き継いでいる。
父も、富士を見ながら、東日本の復興は、必ず成ると感じざるを得なかった。

日本の力を信じている





被災地へ6



最終日、我々は、宮城県名取市の仙台空港へと向かった。
当時、ここも津波で流されたところだ。
父は、当時、ここが流されるところをテレビの生中継で見ました。
黒い海の水が、仙台空港を飲み込んだのです。

そこには、当時、避難する車も映し出されていました。
どんな思いで、地元の方は、迫りくる津波から逃れるため、ここの道を走ったのだろう。
いまでも付近は、パトカーやダンプが行き来し、砂埃がたっています。

普段は、美しいはずの海辺。
再び、我々は、自然の脅威を目の当たりにしました。

被災地へ5




七ヶ浜町は、今回の震災で、60人を超える方が犠牲になられました。
まだ、ここには、ボランティアも入れない、手つかずの場所があります。

流された車や家。この人たちは、助かったのだろうかと思うのと同時に、これが本当に現実なのかと思いました。

一瞬にして、全てを流してしまった東日本大震災。
大地震、津波、液状化、そして原発。
これほどの規模で、これほどの影響力を持った震災が、過去にかつてあっただろうか。
この震災で、そこに住む人々の暮らしも大きく変わってしまった。
いつ、東日本の人たちに笑顔が戻るのだろうか。


まだまだ、私たちがやらなければならないことは、多いと思った。

被災地へ4



ボランティアを無事に終わり、ボランティアセンターに戻ると、裏庭には、がれきの山があります。
津波で流されたものや人。
天災には、勝てないのだとつくづく感じさせられました。

帰り路。七ヶ浜町から、日本三景の一つ、松島を臨みました。
海岸沿いも堤防が流され、大きな土嚢がつんでありました。
この近くの家も、津波に流されていたのです。



被災地へ3


(結構、ブログがたまってしまった)
次の日は、東宮浜の近くの側溝の泥出し。
いざ、仕事をしようとしたら、宮城沖でM7.3の余震が発生しました。
父は気がついたのですが、他のメンバーは気づかず。
震度4っていうのは、あまり、外に出て歩いていると感じないものなんですね。

津波注意報が出たため、我々は、近くの神社へ避難しました。
海岸沿いでは、同報無線により、「現在、津波注意報が出ています。海岸近くに近寄らないでください」という声や、消防団の広報車もでていました。

昼からは、津波注意報も解除され、無事に東宮浜近くの側溝の泥出しも完了しました。

この日、地元の20代の女性も参加。聞くところによると、名取市出身で、職場が津波に流されてしまったそうです。その子も、ひきこもりがちになっていたのですが、体を動かせば何かが変わると思い、ボランティアに参加したそうです。
ボランティア終了後、その子の額には、眩しいくらいの汗が輝いていました。

※写真は、避難した神社。地震の影響で傾いている。